
盤上の静けさと、臨床の緊迫感:囲碁と医師の交錯する思考
盤上の静けさと、臨床の緊迫感:囲碁と医師の交錯する思考
医師という職業は、人の生命と健康を預かる重責を担います。病という不確実で時に予測不能な「局面」を前に、医師は常に冷静な判断と、先を見通す洞察力を求められます。その思考の深さと戦略性は、古来より伝わる思考のゲーム、「囲碁」と驚くほど共通する要素を持っています。
囲碁は、単純なルールでありながら、その変化は宇宙の星の数よりも多いと言われる、奥深いゲームです。広大な碁盤というキャンバスに、白と黒の石が交互に打たれ、互いの陣地を広げ、相手の石を包囲し、攻防を繰り広げます。この対局において最も重要なのは「大局観」です。目先の利益、つまり「一手の得失」に囚われることなく、全局を見渡し、最終的にどうすれば勝利できるかという長期的な戦略を練り続ける必要があります。一箇所での戦いに熱中しすぎると、気づかぬうちに盤面全体で不利になり、敗北を喫することになるのです。
これは、医師の臨床における判断と酷似しています。患者の治療計画を立てる際、医師はまず目の前の症状という「一手」をどう処理するかを考えます。しかし、それ以上に重要なのは、その治療が患者の長期的な予後や生活の質(QOL)という「大局」にどう影響するかを見極めることです。手術という強力な「攻めの一手」が、患者の体にどれほどの負担(損害)をもたらすのか、温存療法という「守りの一手」で、病の進行をどこまで抑えられるのか。最善の医療とは、病気の完全な駆逐を目指す一方で、患者という「碁盤」全体の健康と幸福を最大化することに他なりません。
また、囲碁では、相手の思考を深く読むことが求められます。なぜそこに打ったのか、次に何を狙っているのか。この「読み」の作業は、医師が患者の病態を深く理解するプロセスに重なります。患者の些細な言葉、表情の変化、検査データの僅かな異常値から、病の本質や進行を推測し、「見えない敵」である病原体や病変の潜む場所を突き止めなければなりません。相手の次の一手(病気の次の変化)を予測し、それに対する最善の対応策(治療)を準備すること。この深い洞察力こそが、名医と名棋士に共通する資質なのです。
さらに、近年、囲碁が持つ認知機能への positive な効果が科学的に裏付けられ、認知症の予防やリハビリテーションの一環として医療・福祉分野で活用されています。囲碁が脳の複数の領域を活性化し、特に注意機能やワーキングメモリーの向上に寄与することが示されています。これは、囲碁が単なるゲームではなく、人々の健康を支え、生活の質を高める「医療的価値」を持つことを示唆しています。
静かに石を打つ棋士の集中力と、メスを握る外科医の集中力。深く盤上を見つめる目と、患者のカルテを見つめる目。二つの道のプロフェッショナルは、目の前にある複雑な状況に対し、最大の知恵と集中力、そして「大局観」をもって臨んでいます。囲碁の精神性と戦略は、医師の持つべき冷静さ、洞察力、そして人生という名の長い対局を支える知の力として、深く結びついていると言えるでしょう。